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【対談インタビュー】小山実稚恵さんと テクスチュア探訪 Vol.18

2024年9月23日(月・祝)の「華麗なるピアノ・コンチェルト」に向け、演奏するベートーヴェン《皇帝》・ラフマニノフ《2番》それぞれの作品や作曲家への想いなど、小山実稚恵さんにお話を伺いました。

*当公演のチケットは完売しております。

※テクスチュア:織物の織り方、生地。手触りや質感のこと。音楽では創作作品の書き込みそのものを指す。
〈聞き手=杉並公会堂 企画運営グループ〉

 

 

驚異のコンチェルト2曲プログラム

-今回9月23日のコンサートは、日本フィルとの共演で、コンチェルト(協奏曲)2曲のプログラムです。杉並公会堂では以前も、一度のコンサートのなかで小山さんがピアノ協奏曲2曲を演奏していただく機会がありました(2021年度:ショパン1番+2番/2022年度:ベートーヴェン3番+ラフマニノフ3番)。1曲だけでも大変なエネルギーを必要とするであろう協奏曲を、一度のコンサートで2曲演奏されるという、いわば驚異のプログラミングです(笑)。今回のこの2曲は、どういった思いで選曲されたのでしょうか。

 

[小山]まずは、杉並公会堂のリニューアルオープンのタイミングを意識しました。新たな門出にあたり、華やかなコンチェルト2曲が、象徴的な役割を果たしてくれると考えたからです。選曲にあたっては、1曲は古典派、もう1曲はロマン派という対比もありつつ、2曲に共通するのは、オーケストラの魅力全開の作品であるということ。ピアノ協奏曲でありながら、オーケストラがとても素晴らしいですから、オーケストラ好きのお客様にもお楽しみいただけると思っています。

 

ベートーヴェンの時代、《皇帝》はとても斬新な音楽でした

-ベートーヴェン《皇帝》から伺います。杉並公会堂で小山さんの演奏としては、2016年以来8年ぶりの《皇帝》です。

 

[小山]8年前の《皇帝》は、良く覚えています。小林研一郎先生の指揮で、ちょうど杉並公会堂10周年の年でしたよね。

 

-1808年から1810年頃の「傑作の森」とよばれる時期の作品ですね。ピアノ協奏曲第4番や交響曲《運命》《田園》など、ベートーヴェンの素晴らしい傑作が次々に生まれた、いわば充実した時代でしたが、次第に耳が聞こえなくなっていきます。

 

[小山]そう、この頃から耳が聞こえなくなってしまい、《皇帝》のあとピアノ協奏曲は作曲されませんでした。この時代は、ピアノ協奏曲の新作初演の時には、作曲者本人がピアノを演奏することが多かったのです。なにしろ作曲されて間もない新作なので、共演するオーケストラ奏者にとっても初めての曲ですから、作曲者としてオーケストラをリードし、音楽的な調整をしながら、演奏を成功に導く必要がありました。ベートーヴェンは、ひとつ前のピアノ協奏曲(第4番)までは、初演のピアノを自らが演奏したのですが、《皇帝》の初演は自らが演奏せず、別のピアニストに任せています。おそらく難聴が進み、オーケストラとの合わせがうまく聞こえない恐れがあったのが、理由の一つではないでしょうか。ベートーヴェンの心の中では、新作が鳴っていたでしょうから、さぞかし不本意であったことでしょう。

 

-曲の聴きどころを少しお伺いします。第1楽章の出だしがあまりにも印象的ですが、どんなイメージをお持ちですか。

 

[小山]まずは冒頭の力強いEs-dur(変ホ長調)のハーモニーあとに、ピアノが煌びやかで輝かしい分散和音を奏でて始まります。独奏ピアノは、完全に自由な拍子のカデンツァ(ソロ楽器がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部分)を奏でますが、当時としてはとても斬新ですごいこと。カデンツァの後、そこからちゃんと車のエンジンがブルルンとかかり、オーケストラが奏でる素晴らしく凛々しいテーマで、音楽が回転し始めます。「だんだんと加速」ではなく、「はい、今エンジンが始動しました」というような。200年以上前の時代、こんな音楽的アイデアを作品にしたベートーヴェン、もはや天才としか言いようがないですね。当時としては考えられないほどの「新しい音楽」だったことでしょう。

 

譜例:第1楽章冒頭カデンツァの後「エンジンがかかる

 

-第2楽章は、とても美しい音楽ですね。冒頭のピアノのフレーズ、やさしく語りかけられるようなイメージを持っています。

 

[小山]冒頭部分、森の中で、木立の隙間から光の筋が差し込んでくる、私はそんな場面をイメージしています。木漏れ日のなかに風が吹くと、また少し空気感が変わったり…でも人間的な語り掛けというのも、それもまたあり得るかもしれないですね。人によって感じ方のイメージがかなり違う…でも、そこが面白いところでもあります。

第2楽章はその先、「ファ・シ・レ」と左手の3連音符が出てきます。私はそこが大好きで、あの部分に差し掛かると、何というかたまらない気持ちになります。もちろん右手のメロディも好きなのですが、左手の3連音符は何とも言えないパーソナルな、個人の思いを投影する音楽というのでしょうか。

第2楽章の最後の方、第3楽章に向かう場面もまた森の中。これからの行方を探しています。第3楽章のモチーフは出てきますが、すぐには進んでいかない。どこに行こうか、少し探して立ち止まる。次第に気持ちは盛り上がっていく。ピアノの音は減衰して消えていきますが、ホルンが気持ちを繋いでいてくれる。最後に増幅されて、第3楽章になだれ込む、という。

 

譜例:第2楽章最後の4小節

 

共演者の音楽に呼応して、私の演奏も変わっていきます

-小山さんはこれまでに何度も《皇帝》を演奏されていますが、この曲の演奏で特別に意識されていることはありますか。

 

[小山]私がとりわけ興味深いのは、共演する指揮者やオーケストラによって、音楽の方向性が大きく変わってくるということ。特に《皇帝》では、共演者のフレーズの取り方や感じ方によって、演奏の印象が大きく異なりますし、とても楽しみなところでもあります。

例えば第1楽章の冒頭、カデンツァの途中から最後にかけて、指揮者によって色々な拍の取り方があり、毎回とても興味深いです。「こうでなくてはならない」ということはないので、基本的には指揮者の方にお任せしています。

他の部分でも、あるフレーズを演奏するときに、上に向けて「ちゃっ・ちゃっ・ちゃっ」と弾くか、下に重さをかけて「ず・ず・ずっ」と弾くのかで、同じ楽譜であっても音楽の印象が随分変わりますよね。上に求めるのと、下に踏みしめるのでは、印象が天と地ほども違う。自分の中で好きなフレージングもありますが、共演者の音楽を受けてこちらの演奏が変わっていくのも音楽の醍醐味ですから、オーケストラの演奏するフレージングに私の方が合わせて弾くこともあります。

 

-オーケストラの音楽に呼応する形で、小山さんの演奏も変わっていくという、まさに生演奏の醍醐味ですね。結果的に、出てくる音楽が全く別の肌合いになるでしょうし、お客様の印象も大きく変わりそうですね。

 

[小山]はい、演奏は言葉と同じように、いま話している部分の意志の示し方や表現の仕方、あるいはその前の部分の語り方によっても、フレージングが変わってくることがありますが、どの演奏にも不正解はないのです。その人の中から出たものであれば、どれもその人の言葉であり、演奏であるのです。

 

 

ラフマニノフの素晴らしさは、そのオーケストレーションにあります

-次に、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番について伺います。お客様にもとても人気の高い作品ですね。

 

[小山]この曲には、たくさんの素敵なメロディや曲想が登場します。これはラフマニノフの作品の特徴でもあるのですが、彼の頭に次々に浮かぶ、美しいメロディやたくさんのフレーズの断片が見事なまでに繋がって、作品が構成されています。その構成感は本当に素晴らしく、今回演奏するピアノ協奏曲第2番のまとまりも、本当に「お見事」ですよね。

そしてラフマニノフの作品の素晴らしさは、オーケストレーションの素晴らしさにも現れています。他のピアノの作曲家、例えばショパンのピアノ協奏曲もオーケストレーションは素敵ですが、もっとシンプルに、単純に描かれています。その点ラフマニノフは、独奏ピアノのパートはもちろん、オーケストラも物凄い音数で複雑に、しかしながら非常に効果的に描かれています。すごい才能だと思います。

 

-全曲を通して印象的な場面が多い曲ですが、小山さんが感じる聴きどころを教えていただけますか。

 

[小山]第1楽章の出だし、オーケストラのテーマが始まったところは視界が開ける感じがしますが、明るい空ではなく、ちょっと冷たくてひんやり感があり、雲が低く垂れ込めるイメージですよね。この第1楽章の冒頭の和音が、一見何の関連も無さそうな第3楽章の途中に、リズムを変えて登場します。音楽の雰囲気が変わって、なかなかそうと判り難い部分ですが、気づいた時には驚いて思わずゾクッとしました。しかも、和声が半音階でずれて登場するのがまたラフマニノフらしいと感じます。すごいアイデアですよ。

それから第2楽章の最後の方に、悠々とした大河が流れる情景があります(と、ピアノパートを口ずさむ)。ロシアの広大な大地をゆっくりと流れる、広々として冬は凍るような大きな河。とても切ない情景が描かれている音楽です。

 

-様々な情景のなかに、たくさんのアイデアと細かな工夫が散りばめられているのですね。

 

[小山]そう、細かくてとても微妙な。ラフマニノフの傷つきやすく繊細な性格を現しているのかもしれない(笑)

事実、このあとに作曲されたピアノ協奏曲第3番も、ピアノソナタ第2番も、他人に「ちょっと長いんじゃないか」と言われて、せっかくの作品を大幅にカットしてしまう。交響曲もそうですね。そんなところから、とても繊細な「迷い人」ではないかと思うのです。

この話には伏線があって、ラフマニノフは子どものころから大柄で手も大きく、ピアニストとして才能を認められた有名な存在でした。モスクワ音楽院では作曲家のスクリャービンがひとつ上の学年におり、2人とも最優秀クラスだったのですが、大金賞はラフマニノフに与えられるという具合で、おそらく人生でほとんど挫折なく育った、まさにエリート中のエリートだったのです。だからこそ、作曲家としてデビューした後に、自らの作品への酷評に直面し、これまで経験したことがないほどのショックを受けてしまった。

 

 

-そして最後は、アメリカに亡命してしまいます。これ以上、ロシアで過ごすことに耐えられなくなってしまったのでしょうか。

 

[小山]時代が時代ですから、相当辛かったのではないかと思います。新天地を目指しながらも、いざアメリカに行くと、ピアノ演奏や指揮の人気で忙しすぎて、それもまた苦しかった。幸せだったのかどうかは、わからないですね。彼はアメリカに行った後もロシア人とばかり交流して、結局は最後までロシアを忘れられなかったのですよね。

 

-ラフマニノフも、ベートーヴェンと全く違う意味での天才というか…。

 

[小山]ベートーヴェンはやっぱり「縦」。音楽の拍の刻みや、構築感といったものは圧倒的にベートーヴェンの領域です。一方のラフマニノフは「横」の絡みですね。唐草模様にも似た、ちょっと悩ましい、細かい線が様々に絡み合う音楽。二人とも天才ですが、その中身は大きく違います。好対照ですね。

 

 

日本フィルは人間味あふれる素敵なオーケストラ

-とても素敵なコントラストのプログラムだと思います。小山さんにこのプログラムを演奏していただくことになった時に、指揮者は垣内さんをご要望されました。

 

[小山]私、垣内さんの音楽が好きなのです。彼の中には迸(ほとばし)るほどの、大きな音楽があることを感じます。ウィーンに長くいらした方なので、ベートーヴェンは大得意でしょうが、私は彼が指揮するラフマニノフが本当に好き。常に大きな情景を描いて、身体と心が絶えず歌っているように感じます。呼吸が相通じるものがあり、合わせようとしなくても合うというか。今回もご一緒できるのが本当に楽しみです。

 

-一方で、毎年様々な場面でご共演を重ねられている日本フィルさん、小山さんにとってどんなオーケストラですか。

 

[小山]日本フィルは人間味あふれる素敵なオーケストラです。今どきのクールというよりは、どちらかといえば少し音楽的な泥臭さを感じるほどに、受け入れる感覚が柔軟というか、「こうじゃなきゃいけない」というのをあまり感じません。おそらく音楽的にコクの強い共演者の方々に慣れていらっしゃるでしょうから(笑)、その時々の対応力がかなりあるのではないでしょうか。これまで、小林研一郎先生やアレクサンドル・ラザレフさんなど、それぞれ際立った個性をもつ指揮者の方々とご一緒されてきた、そんな影響も少なからずあるのでしょう。若く優秀なメンバーの方もたくさんいらっしゃいますが、良い意味で皆さん日本フィルのサウンドを引き継いでいらっしゃいます。新しい首席指揮者のカーチュン・ウォンさんとも、以前ご一緒させていただきましたが、素晴らしかったですね。

 

-今回は、5か年にわたる小山さんプロデュースの杉並公会堂オリジナルシリーズ「Étoile(エトワール)~ピアノの星」の、3回目の公演となります。小山さんの演奏を通して、ピアノという楽器そのものの魅力や、きら星のごとく輝く魅力的なレパートリーをご紹介するシリーズ企画ですね。

 

[小山]日本フィルさんの本拠地ということもあり、杉並公会堂のシリーズはコンチェルトも含めた自由な組み合わせで、ヴァラエティに富んだコンサートを毎年企画しています。初回は室内楽(トリオ)、2回目はソロリサイタル、そして3回目が今回のコンチェルトとなりますが、来年の4回目以降も、素敵な内容を予定していますので、お客様には楽しみにお待ちいただきたいですね。

 

 

地域の方々の生活に、文化が根差していることを感じます

-最後に、杉並公会堂の公演にお越しいただくお客様に、メッセージをいただけますか。

 

[小山]私はいつも、杉並の住民の方々の、文化への意識が本当に高いと思うのです。ホールにいらしてくださる方にしても、他の地域でよくあるのは、「娘がピアノを習っているから、ピアノの演奏会を聴きにきました」と。それはそれでとても嬉しいのですが、杉並のお客様は本当に音楽を愛していらして、あるいは心のゆとりがあって、この音楽会に行ってみたいなという、そんなお土地柄って、実はありそうでないというか。杉並の場合には、ホールに自転車でいらしてくださるという方がいるほど、地域の方々の生活に文化が根差している。

いろいろな背景があると思いますが、そもそもお住まいの近くに杉並公会堂があることで、音楽会に行くことのハードルが下がっていることがあると思います。肩ひじを張って「クラシックのコンサートに行きますよ!」ということではなく、日常生活のなかで生の音楽を楽しむ選択肢が普通にある、素晴らしいことですね。

それから、日本フィルさんの本拠地であるということ。これまでの歴史の中で、このホールにプロのオーケストラが住んでいるということで、コンサートの企画など様々な部分での可能性が拡がりますよね。このシリーズ「Étoile(エトワール)~ピアノの星」にしても、大都市のいちばんの顔となるコンサートホールで取り組むような豊かな内容です。それなのに、言ってみればここは区のホール。このような充実したシリーズが成立し、たくさんの方が聴きに来てくださるなんて、本当に素晴らしいことです。

 

-公演を観にきてくださるお客様の層を考えても、都心のホールと比べて様々な方がいらっしゃるように思います。お客様の期待がとても高いことを日々感じますので、皆さんに面白いと思ってもらえる音楽会を創っていきたいですよね。

 

[小山]そう!「聴きに」くるだけじゃなくて、「観に」きてくれるお客さんは大切ですよね。特にクラシック音楽は、こだわりを持ってじっくり「聴く」という方もいらっしゃるけれど、杉並のお客様はより広い視野をもって、様々な楽しみ方をしてくださる印象です。それに、お客様の興味が単純に有名な曲ばかりでなく、より広く、深いところに向かっている実感があります。だから企画チームも、ただ名曲を取り上げておけばいい、という次元ではなくて、お客様の興味関心が進化していく中で、常にその上の世界を提案し続ける。杉並公会堂は、お客様とお迎えする側との、そんな信頼関係が素晴らしいなと感じています。

 

(2024年7月 小山実稚恵さんの自宅にて)